目から鱗の尺八上達術 −あなたの努力は報われていますか?−

【第50回】総集編(後編) 自分自身のための音を 2014年2月(325)号

 長い間お付き合いいただき誠にありがとうございました。このコラムは今回で終了します。

浴び続けていたい音

 本誌昨年12月号の〈CDレビュー〉小林渡さんの言葉「良い声とは、ずっと浴び続けていたいと思う声」というのがあり感動しました。私は自分で尺八も作り、自分で演奏する曲も自分で作り、録音もします。何故そんなことをしているのかというと、まさに良い音を浴びていたいからなのです。どんな音楽においても、いつまでも浴びていたい音に出会うことが最高の喜びだろうと思います。
 私は決して音楽的才能に恵まれた人間ではないと思います。しかし、尺八に憧れて尺八を吹き始めましたが、プロにはなれないにしても自分で満足ぐらいはしたいといつも思っていました。
 NHKの邦楽技能者育成会での講師、藤井凡大師が言った言葉がいまでも私を支えてくれています。「演奏家とは自分で楽しんで楽しんで、その楽しさがあふれた部分を人に聞いてもらうものだ」。何だかこれなら出来そうな気がしました。「苦しんで苦しんで、その後にプロの世界が見えてくる」なんてことだったら、私は真っ先に尺八をやめたでしょう。
 親友である善養寺惠介さんは次のように言っています。
 「本当の意味で充実した倍音が響く時は、発音のための身体的なエネルギーの消耗が最も少なくなります。その時何が起こるか? 演奏者のエネルギーの大半は“音楽”に注ぎ込まれるわけで、初めてここで演奏者の赤裸々な内面が音楽に現れて来るのだと思います。我々は演奏を聞いてその部分にこそ興味を覚えるのであって、発音という行為と格闘する姿に感動するのではないと思います」
 「音楽は楽器の中に存在するのではなく、何処までも演奏家の精神と肉体のなかで起こる化学反応のようなもので、楽器はいわばその触媒ではないかと思うのです。優れた触媒とはそれ自身は何も主張しない」と。
 よく善養寺さんと三塚、全然ジャンルの違う音楽をやっている二人が何故話が合うのか不思議がる人もいますが、このような訳で、音楽について、良い音について求めるものが一緒だからということに他なりません。
 たった5つしか指孔を持たない尺八、そして3オクターブにわたり全ての音を発音できるフルート。同じエアリードの楽器として比較されますが、違いは明確です。音量、音質、ピッチの幅の広さ、音による表現力は圧倒的に尺八のほうが優れています。やはり尺八を学ぶ上で真っ先に取り組むべきは「良い音の出し方」だろうと思うのです。

邦楽はなぜ衰退したか

 尺八をはじめとする日本の民族楽器は、本来的に民族楽器なのに伝統という言葉に踊らされて本来の目的を見失いつつあるのではないでしょうか? 伝統を守るということに主眼を置きすぎたように思います。
 どの流派もその流祖は自ら作曲した音楽を演奏することで一躍有名になり、その音楽を演奏したい人や習いたい人が集まることで大きくなりました。その拡大の原動力は流祖なり家元の作曲能力と演奏能力です。企業で言えば商品開発能力だと言えるでしょう。二代目、三代目にその開発能力がなければ、その流派や団体は衰退してゆきます。商品である音楽に魅力がなくなれば衰退してゆく、実に当たり前のことなのです。
 古い時代の演奏を懐かしみ、そればかりを真似させる今のやり方では衰退は免れないでしょう。家元(とそっくりに)に演奏することを強要するだけでは、音楽が持つ可能性を否定することになります。
 二代目、三代目自身に商品開発能力がないのなら、他にその部門を作らなければなりませんでした。演奏能力である生産技術も伴っていないなら、演奏技術者を養成して家元は単なる経営者になり、商品である流派の音楽を広めることに専念すべきだったのです。
 西洋クラシック音楽のシステムの誤った解釈も感じます。西洋クラシック音楽では、作曲家と演奏家は分業化され、それぞれに特別な訓練を行い専門化されています。その他の民族音楽やポップス、ジャスなどは、自作自演が基本であり、楽譜は単なるメモでしかありません。どんな表現をするべきかは、その時の演奏家の判断に任されています。そこを誤解し、西洋クラシック音楽のシステムをそのまま導入し、民族音楽であるにもかかわらず演奏家の自由な解釈を認めなかったことで、本来時代と共に発展するはずだった音楽を時代錯誤のつまらないものにとどめてしまいました。
 名簿上の尺八人口は毎年毎年減っていると言います。しかし、その影で若い子達のライブ活動や、定年退職後に尺八を再開して、個人やグループで楽しんでいる人、さらには既成の尺八曲以外の曲を楽しむ人も爆発的に増えていることはYouTubeなどからも感じ取れます。尺八人口が減ったという悲しげな記事ばかりですが、実は本来あるべき姿に戻りつつあるのではないでしょうか?
 自分で浴びていたいような尺八の音、それがあるから尺八を始めるのだろうと思います。それを求めるからいつまでも続くのだろうと思います。流派のため、先生のため、周りのための音ではなく、自分自身のための音、その出し方をこれからも紹介してゆきたいと思います。